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月刊誌 建築ジャーナル 寄稿 
2014年


2014年11月号
  <特集> 木造による放射能対策住宅「ふくは家」
  …地元建築家として夢ある住まいづくりを…

・・・ふくは家というメッセージ・・・

 災害以後、苦悩と自問自答の中で放射能対策住宅「ふくは家」というプランをつくり発表した。それは「放射線を避けながらも夢ある生活空間ができる」というメッセージだった。ずーと希望もなく非常事態状況では生きられないし、何より自分自身に希望が欲しかったのだ。

 この秋、災害を起こした東京電力福島第一原発から2.5kmほど西を通る国道6号線が全面開通となり、避難指示区域も一部解除、また県が中間貯蔵施設計画の受け入れを了承、そして県内各地の除染も進んでいる。

 この災害から3年半がたち状況も変ってきた今、「ふくは家」への執筆依頼を頂き少々戸惑う。しかしこの機会に、福島の不安・苦悩・怒りの中で地域建築家として何を感じ、何をしたかを改めてみつめようと思った。もしかしたら地震・津波や原発事故以外でも、世界中どこかでいつでも起こり得る非常時に、僕らは何ができるかを考えるきっかけになるかもしれない。

ふくは家(うち)パース

ふくは家(うち)模型

・・・放射線量・・・

 2011311()14:46福島にマグニチュード9.0の揺れ、続いて津波、そして原発事故による放射能が襲う。それまで原発や放射能など意識したこともなかった。福島市では0.050.09μSv/h(マイクロシーベルト/毎時)で推移していた数値が、315()17:00、突如20.26μSv/hに跳ね上がり、18:40には24.24μSv/hと最大になる。(県北保健福祉事務所・県測定)現在、同位置の放射線量は0.24μSv/hであり、最大時に比べると1/100まで下がったことになる。しかし今でも福島県では、TV・ラジオの天気予報で県内各地の放射線量も伝え、常に原発関係のニュースが流れ、原発や放射能への不安は続いている。

 シーベルト(Sv)とは、放射性被ばくによる人体影響を示す指標で、被ばく線量の単位。

 放射線量を語る時、バックグラウンドを話さなければならない。それは原発事故の影響を除いても、自然界には元々放射性物質が存在し、世界中どこでも放射線が測定されるからだ。文部科学省によると、世界の平均自然放射線2.4 mSv/(ミリシーベルト/)、日本の平均 1.48 mSv/年となっている。日本の自然放射線の内訳は 食物0.22、吸入0.59、大地0.38、宇宙0.29mSv/年である。これ以外に日本では平均2.25mSv/年の医療被ばくがあり、合計3.73 mSv/となる。

 このうち大地からの放射線量0.38 mSv/年を時間あたりにすると0.04μSv/hになる。例えばある場所で放射線量を測って0.24μSv/hだった場合、バックグラウンドの平常値 0.04μSv/hをマイナスした値0.2μSv/hが原発事故による放射線量になる。

 国はICRP(国際放射線防護委員会)の勧告を基に、バックグラウンド以外の追加被爆の基準を1mSv/年未満としている。これを一律の生活様式に当てはめると、外部空間線量は0.23μSv/hとなるとの見解だ。県内の市町村の多くはこの数値を除染目標に設定している。しかしこれは安全と危険の境界線ではなく、線量を少しでも元に戻すべきだということは、言うまでもない。

・・・福島県の苦悩・・・

 この状況に、原発事故現場近くの避難指示区域だけでなく、福島県全体が苦しまされた。事故直後、多くの人が県外に避難、残った人は屋内で余震と原発事故拡大、放射能汚染の恐怖と戦った。様々な情報混乱の中、200万人が耐えた。それはおそらくこれまで誰も経験しなかった出来事だろう。福島県への風評・差別の噂や報道、同じく被災した岩手・宮城県の瓦礫処理受け入れ反対運動などの報に傷つき続けた。「福島県、そして僕等はどうなるんだろう」と思った。

 当時「このまま住んで良いのか、住めないのか」が問題だった(今でも同じかもしれない)。地域では外で遊ぶ子供の声が消え、「誰もいない公園で子供を遊ばせていると、10分もしないで罪悪感が湧く」と話す友人もいた。僕らはこの不安・苦悩・怒りを何にもぶつけられないでいた。

・・・おひろめ会・・・

 そんな中20124月に「ふくは家」を発表した。それは「放射能対策をしながらでも、開放的空間ができる」「家族で見守りながら子供を外で遊ばせることができる」というもの。しかし県内は「住んで良いのか、住めないのか」の混乱の中。自分の中に発表すべきか否かの葛藤があり、発表をためらった場面もあった。それを後押ししたのは、「福島に住みたい」「豊かな暮らしをつくりたい」と思う人たちの存在だ。

 「自由に楽しく住むために」をテーマに、ふくしま建築集団主催の「おひろめ会」を実施した (本誌20126月号掲載)。会場には一般市民の他に放射線の専門家なども来場。ただの発表会でなく、様々な情報交換の場になった。放射線を通しにくい材料の情報や、ふくは家を集会所や幼稚園に転用するアイディアが出たり、みんなで考える機会となった。

おひろめ会郡山会場

・・・基になる放射能の特性・・・

 原発事故により放出した主要放射性物質はヨウ131セシウム1341373種類。各々の半減期8230年。半減期とは放射線の放出量が半分になる期間で、ヨウ131は半減期が8日であり、1300日を超える今、影響はほとんどないと言える。今後の問題は半減期の長いセシウム134137となる。

 セシウム134137は共にベータ(β)線とガンマ(γ)を出す。β線は透過力が低く、mmのアルミ板で止まり、空気中でも数十cmで減退。外部被ばくも皮膚で止められる。しかし反面エネルギーは高く、体内での影響が大きい為、内部被ばくに注意が必要だ。

 そして、主に建築的に問題になるのはγ線。透過力がβ線より高く、外部被ばくに注意しなければならない。あまり物質と相互作用しないため遠くまで飛ぶが、空気中では距離の2乗に反比例し弱くなり、2倍離れれば1/410倍離れれば1/100となる。そしてコンクリートや水など重量の重い物質で遮断が可能。これらを考慮して、ふくは家を計画した。

・・・ふくは家の特徴・・・

 コンクリートの方が木より放射線を止めることは分っている。では今後の福島の家とはコンクリート造だらけになるのか。そうではない。地場産業である木材を使用しても、放射線への対策を行うことは可能だということを示したかった。


 主な特徴は@地元で一般的な木造A放射線対策がしやすい平屋B建物で遮断した中庭空間で子供たちを安心して遊ばせられる場所を確保C中庭中心に家族の気配が感じられる一体感のある空間D塀や物置等で放射線を止めるE外に面する窓は小さく上部や足元に、中庭の窓は大きく開放的にF外部との遮断による閉鎖性を打破するために3方向のアプローチとする(地域との繋がり)G屋内菜園等のためのサンルームや屋内物干し空間を設置H外から帰って来た際の手洗いは重要、水場を多くし動線も考慮・・にある。

 中庭を広くとるため、当初プランは規模が大きく(住居面積 45.125 車庫面積 13.375坪 延べ面積58.50坪の平屋)130坪の敷地が必要だった。1回目のおひろめ会で、参加者より「もう少しコンパクトなプランも欲しい」と要望があり、縮小タイプ(住居面積35.0坪 物置面積1.5坪 延べ面積 36.5坪 敷地面積80.47坪の平屋)も設計した。

・・・事故後の住宅建築・・・

 時折「実際建った ふくは家 が見たい」の問い合わせがあるが、そのまま建築したものはない。建築する場所により計画は違ってくるべきだからだ。敷地と周辺環境の研究は建築の基本だが、放射能対策住宅はそれにプラスし放射線量が含まれてくる。

 たとえ放射線量が一時の1/100になろうと、今でも放射能を意識しての建築をしている。それは計画においてはもちろん、工事においても。工事監理においては@施工前A基礎完成時B木工事完成時C工事完成時に各所の放射線量を測定している。

 そんな中での今年完成のプロジェクトを3つ紹介する。

家族の家


転勤していた息子さんが福島に戻ってきた。キャリアウーマンの奥さんと二人の可愛い娘さんを連れて。家族は古い家を壊し、一緒に住むための家を建てることにした。初めての同居の家はふくは家と同じ口の字型のコートハウス。しかし、放射能対策というより、世帯間の距離感確保のための中庭。家族の思いは「人の集まる家」、14人がテーブルを囲める居間空間が絶対条件となる。建物に囲まれた18帖の中庭の放射線量は室内とほぼ同値で、他敷地内線量の38%程度。

夫婦の家


83歳のご主人が、結婚50年目に奥様に贈った家です。彼は「いままで苦労をかけたので、奥様の気にいった家を建てたい」と言う。それは夫妻二人で住む家。そして隣接して娘さん夫妻の住まいがある。L型平面に囲まれた庭線量は施工前の1/3以下となり屋内はその約半分となった。

蛍の家


 畳職人さんのご主人、電気屋さんの奥様一家は誰からも好かれる明るい家族。震災前に蛍の生息する小川近くの土地を購入していたが、原発事故により計画を足踏みしていた。開放的な中に、少しでも低放射線空間としたい。アウトドア派の家族は気兼ねなく庭生活も希望。デッキを囲み、コの字型の平面の平屋。デッキ部分の線量は敷地周辺の1/3程度、屋内は更にその5080%。周囲を明るくする一家は小川の蛍の様に、地域を照らしてくれるはず。

・・・これから・・・

 私たちにとって「住まい」とは何だろう。東電原発事故後の放射能対策の苦悩は、それを見直すきっかけとなった。外敵や過酷な自然環境から家族の身を守り、また健全な生活を守るために欠かせないもの、それが住まいだ。では健全な生活とは何か。それは一人一人考えが違う。1010色の考え方に寄り添い、技術的デザイン的に解決する。それが私たちの仕事だ。

 震災以後、学んだことも多くある。その一つが人の繋がりの重さ、家族の大事さだ。紹介した3プロジェクトの家族のように輝く家族がたくさんいる。地元建築家として、打撃を受けた福島だからこそ、一層夢ある楽しい住まいをつくることが責務と考える。いつの日か、あんなに苦労した福島だからこそ、こんなに夢ある素敵な地域になったと言われたものだ。




2014年 9月号   「秋の全国建築士大会、来てくなんしょ!」
  …女性建築士による放射線測定実験…

57回建築士会全国大会ふくしま大会が1024日の前後3 日間、郡山市で開催される。「ならぬことはならぬものです」の基にテーマ「建築・絆・再生」を福島の地で語ろうというものです。

 それに合わせ、ハンサムウーマンこと福島県建築士会女性委員会が「放射線対策住宅の手引き」作成を目指し、避難指示区域内に現実の住宅により近い模型「モックアップ」を作り、調査実験をしている。
 
 現在、東京電力福島第一原発事故の避難指示区域は放射線量により3段階に分けられている。年間20mSv(ミリシーベルト)以内の地区が「避難指示解除準備区域」。自由に出入りでき、会社や店を開けるが、宿泊には許可が必要。そして20mSvを超え50mSv以内の地区が「居住制限区域」。復興作業に必要なガソリンスタンド等を除き会社・店は開けない。宿泊にも許可が必要だが、日中は出入り自由。そして50mSvを超える地域の「帰還困難区域」は許可がなければ立入禁止となっている。

 彼女達はこの5月、南相馬市の居住制限区域にモックアップを作成した。そして第2回目の実験が627日に行われると聞き、現地を訪ねた。

 南相馬市の実験地は福島市から車で2時間程度。途中同じ居住制限区域の飯館村を通る。居住制限区域は意外に工事車両等が多く、混雑している所さえあった。これまで私は第一原発南側の居住制限区域に入った事はあるが、北側は事故後初めて。

 実験地は畑に囲まれた農家住宅の敷地の一角。200mほど南西では、畑の除染作業が行われていた。そこは元々、女性委員会会員の実家であり、その敷地の一角を借りての実験調査を行っている。もちろん実家の家族は避難され、住宅は地震被害状態のままになっていた。


実験敷地全景・右がモックアップ

 昨年から国際情報工科大学校放射線科の吉澤先生の協力で、実験室内での建材の遮蔽試験を3回実施して来たそうだ。その結果を基にモックアップを作成。それは南側が2.516μSv(地上1mの高さ)と比較的高い放射線量の畑が続く、敷地の端の農業用倉庫前に建てられていた。大きさが1,365mm×1,820mm高さ1,905mmの木造。3面が壁で、1面に600mm×500mmの窓が1ヶ所設置、既存タイプと新築タイプと称する2つが作られた。

 
既存タイプは放射線量の高い南畑方向に窓を設置し、改修を想定し一般的仕上げの建物に建材を増し張りして効果確認のために作成。一方新築タイプは南畑方向とは逆の北面に窓を設置した場合の効果を確認したと言う。

 今回第2回目の実験は県内各地から会員6人が集まり、Low-Eガラス、遮蔽カーテン、ワラ畳、スタイロ畳、紫外線カットシールなどの実験測定が行われた。女性らしい身近な物での遮蔽実験に感心させられた。


放射線測定状況

 「今後、月一度のペースで実験を続け、建築士会全国大会までにまとめたい。そして放射線対策住宅の手引きを作成、県内各地に配布したい」と語っていた。

 今、避難指示区域の解除が進み、そこでの生活が少しずつ始まろうとしているが、建物を造る為の建材の放射線遮蔽率のデーターは驚くほど少ない。いまだ建築界はこの事態の対応準備ができてないようにみえる。その中でのこの試みは貴重と考える。しかし彼女達の活動は厳しい。木材を会員会社からの無償提供し、会員はボランティアで県内各地から参加しているが、いまだ冊子作成予算が不足しているそうだ。これらの活動に対する全国各企業・団体の協力を期待したいものです。

 そして何より「ぜひ福島での建築士全国大会へ、来てくなんしょ(お出で下さい)!」



2014年 7月号   「放射能対策住宅をメッセージに」
  …夢を取り戻すための烽火に…

この春、漫画による福島の現状表現が問題になったが、福島県では原発事故以来こうしたことの繰り返しで、そのたび不安に苛まれる。誰の話を信じれば良いか分からなくなった。僕らはまるで闇の声に脅され続けているかのようだ。
 震災の年11月、ダライ・ラマ14世が福島に来た。そこで彼は「いつまでも悲しんでいるのではなく、悲しみを頑張る力に変えるべきだ」、さらに「地震・津波・放射能被害は世界の終わりではない。・・・70億人はいつも誰かしら困難を抱えている。人類はそれらを乗り越えているのだ。so don't worry」と話した。

ダライ・ラマ講演 2011.11.16

その当時多くの人々が県外へ避難し、県内では「再び大地震があれば4号機建屋が危ない・・」等の不安は強かった。子供たちは室内に籠り、外で遊べない状況が続く。しかし、どう頑張る力を出せばいいのかが見えなかった。この状況に建築のチカラは何もできないのだろうか。

 その頃、私は県内各地で仮設建築に携わりながら、様々な場所の放射線量測定をしていた。そしてその測定値が何を意味するかを知るために、放射能()についての勉強も始めていた。ダライ・ラマの講演を聞いた後、「自分たちのこの苦しみを和らげる建築の提案をしよう」と思った。30年間住宅建築家として育てもらった地域に、少しでも恩返ししたい・・との思いもあった。震災以前プロジェクトに放射線対策のヒントがあるとも感じていた。

 ヒントとなったプロジェクトは包む家・KURUMU」である。建設地は高速道路に繋がる国道沿いで、24時間車の往来が激しい。そこでの会話は大声でも聞き取れないほどだった。国道からの騒音・視線を遮る対策として、南国道側に倉庫・水周りを集中させた防御壁空間を設け、その内部は居間とキッチンに囲まれた中庭空間とし、騒音を止めながら住宅奥まで光を取り入れるコートハウス型木造2階建の住宅とした。防護壁空間は騒音・視線を止めた。放射能調査・研究を進める中で「防護壁と距離によって放射線も低減することができる」と考えていた。


包む家・kURUMU外観 右が南側国道

包む家・kURUMU内観 右が南国道側

放射能対策住宅と聞くと、原発建屋のように窓がないコンクリートの塊を想像するが、そんな空間では暮らしたくないし、夢が持てない。一般的な木造住宅でも「放射線を避けながら素敵な住空間ができる」ことを提示することが重要だ。その提案が災害前の生活を取り戻すための希望になれば・・と考えた。

 先ず、放射能の住宅・暮らしに関連する事項を「放射能対策住宅レポート」としてまとめた。そしてその考えに間違いないかを確かめるべく、大阪にて2日間放射能の実験等を含む講習を受け、第3種放射線取扱主任者の資格を取得した。道中の深夜高速バス内で対策住宅の計画を練った。さらに放射能の街に与える影響を知りたく長崎、広島も高速バスを乗り継ぎ訪ねた。原爆の被害から立ち上がり、その発展ぶりに改めて驚かされ、勇気をもらった。それは暗い夜道に灯りをともしてくれたようだった。

 2か月後、福島市飯坂温泉で開かれたイベント「FORREST大学」ふくしま住居論の講義で木造による放射能対策住宅「ふくは家うち」を発表した。それは不安にゆれる私たちへのメッセージである。地元建築家の意地であり責任とも考えた。建築のチカラにより夢と希望を取り戻すための烽火のろしにしたかったのだ。震災から1年経過していた。


「FOR座REST大学」の様子 発表者が筆者



2014年 5月号   震災後、仮設住宅集落案」などを提案、戦いが始まった
  …自分の中の建築家の殻を破ったかもしれない…

震災以後、放射能に翻弄され、もがき続けた。そしてそれは今も続く。この福島での建築人の災害経験が、今後の非常時対応の何かのヒントになれれば幸いと思い、設計者として震災後に何を思い、行ったかを書こうと思う。

 直前に地鎮祭を行ったプロジェクトがストップするなど、震災後、事務所内各プロジェクトは軒並み無期延期となり、クライアントの避難も相次いだ。被災建築の相談調査を行いながら、避難者応援イベント等に参加した。とにかく前を見ていたかったからだ。

 
そんな中、震災1ヶ月後に「廃校を核とした仮設住宅集落案」を考えた。市や県に直談判し提案するも、10万人を超える避難者がいる福島県では学校も不足、計画案はある意味的外れで、残念ながら実現には至らなかった。

 5月連休前には放射線測定機器を入手。建築物件を手始めに多くの場所の放射線測定を開始。また、測定値の「μSv(マイクロシーベルト)」とは何かを知るため、放射能についての勉強も始めた。

 6月には日本建築家協会福島地域会主催の復興支援会議にて「仮設住宅七変化」を発表した。それは大量の木造仮設住宅が使い捨てされることを危惧し、積み重ねることによって復興住宅に繋げようとしたプランだ(後述するが、今回の震災では「木造」の仮設住宅が数多く建てられたことが画期的だった)。更に、住まいにプラスさせて「離れ」のカフェ、店舗、ギャラリー、集いの場等に改造利用する計画も加えた。地域ににぎわいを取り戻す一助になると思った。その後この考えは、実際の住宅建築にも取り入れた。

 時を同じにし、仮設の高齢者等サポートセンターや、高齢者に特に配慮した仮設住宅団地の計画が採用され、実際に建築される。仮設住宅団地のプランは、玄関向い合せ配置にこだわった。コミュニティーを守ることがとても大切だと感じていた。また、地元の建築家として、気候風土を考慮した配置・構造とすることに力を注いだ。「仮設住宅七変化」の考え方も活かし、仮設としての役割が終わった後の再利用も意識した。これを機に、その後集会所や消防団拠点施設などの仮設建築プロジェクトに携わることになる。

 仮設住宅に神棚をつけなかったことは今でも悔やまれる。福島では通常の住宅計画では、ほとんど神棚を設ける。通常以上に仮設での生活は心のよりどころが必要なはずだ。災害での避難者は精神的にも大変な思いをしているのだから。それは板一枚の神棚でもよかったろう。それを思いやれなかった自分の未熟さが残念でならない。

これらの仮設プロジェクトに実際に携わり感じたことは、地域の底力であった。これまで阪神・淡路大震災以降、木造による仮設住宅は数十棟しか建設されてこなかったそうだ。しかしこの災害で、福島県では実に5,000棟以上の木造仮設住宅が建設された。木造の空間は気持ちがよい。それは住まいを追われてきた人たちに、わずかでも心のやすらぎを届けられたのではないか。これは誇るべき地域の建築力だったと思う。本来持っている地域力を結集し、ひとつになれれば困難に立ち向かい再生・復興も果たせる。そしてその力を使えば、福島のさらなる飛躍に結び付くのではないだろうか。その福島力を、広く外へ発信することも復興への道になるはずだ。

 プロジェクト「回遊」をグットデザイン賞に出展したのも、そういう思いがあった。それは築100年の建築を残し、新築建物との繋がりをデザインしたものだ。福島の土地は汚されてしまったかもしれない。しかしそこには人がいる。これまでの歴史がある。それらの記憶をデザインすることは、福島が立ち上がるためのエネルギーに、そして大事な財産になると。

 それまでの自分は建築家の独立性を重視してきた。客観的に良い建築とは何かを追及できる距離感が大切だと信じている。しかし福島は今非常事態にあり、この一年は設計者だけの限界も知らされた。そのことから2011年末に建築技術により福島の危機に立ち向かうため設計事務所・工務店・材木屋さん等の25社と共に「ふくしま建築集団」を立ち上げた。頼りになる仲間を得たのである。それはある意味建築家の殻を破ってしまったようにも感じた。しかし「これで放射能と戦えるかもしれない」と思った。

二本松市仮設住宅団地とサポートセンター(左)
郡山市仮設住宅団地・右側は仮設集会所



2014年 3月号   「非常時に地域の設計者は何が出来るか」
  …福島市での震災から原発事故の体験…


 
福島の特派員初投稿として、この災害を伝えないではおけない。それにより地域環境が一変し、建築がいかに地域と密着しているものかを思い知らされた。そして僕らの信じる「建築のチカラ」が揺らいだ出来事であった。この3年はそれを取り戻す戦いでもあったはずだ。

 それは突然来る。私は独立22年、住宅中心の仕事をしてきた。3年前の早春、金曜午後、クライアントと造作テーブルの材料を選んでいた。突如震度6弱の揺れが、5分近く続く。これまで味わったことのない地震に身がすくんだ。揺れが治まると急に吹雪となり、人々は屋外で集まり風雪と余震に震えた。
 混乱と渋滞の中、回り道をしながら事務所に戻ると、屋内は物が散乱していた。電気と電話はそれから1日、水道が8日間止まり、その後ガソリン不足で移動手段も奪われた。福島では震災後も原発事故で避難を考えねばならなかったため、電車が止まっている状態で、車まで動かないことは大問題だった。

 福島県は浜通り・中通り・会津と気候も風土も違う3つの地域に分けられる。私の住む福島市は中通り北部に位置する。土木建築の被害は甚大だったが、地域が根こそぎ崩壊するような津波被害はない。地震時、同じ中通りの郡山市にいた我次女。普段は車で1時間の距離を8時間かけ25:50に帰宅。余震の中、家族は避難用バックを横目に服を着たまま居間に並んで寝る。その後、居間の寝室化は2週間続いた。

 その間、福島第一原発の134号機と相次ぐ水素爆発。TVでは「念のため換気扇を止め、外出を控えるように・・」と言う。店は閉じ、福島の街中は人影が疎らになり、地域では子供達の声が消えた。人々は家にこもり混乱と不安の中、身をすくめる。そして水・食料とガソリン確保の情報を求めた。県民の多くは「留まるか避難すべきか」の判断に悩む。我家では留まることにした。しかし今後の被害拡大に備え、隣県の大学時後輩に頼み、避難先を確保する。避難場所がある事は安心につながり、周辺県のありがたさを知った。そして、家族が離ればなれになる事も想定し、住所や移動方法、電話以外の連絡手段等を決め、メモを各自が持ち歩いた。それらの避難準備は今も続く。

 それまで原発は県内に第一第二の2基と思っていた。しかし現実には10基あり、さらに増設の計画まであった。世界の原発数は427基、そのうち日本には原発が50基ある。世界の2.3%日本の1/5の原発立地県民としての認識が希薄で、無関心であった。その点 では責任の一端があることは否めない。福島市は第一原発から車で2時間以上かかり、浜通りにある原発とは無縁と思っていた。しかし直線距離にすると61kmだった。

 201312月現在、福島県の避難者は県内に90,384人、県外へ49,554人いる。いまだ14人が1,000日以上家に帰れない。一方県内の人は残る判断が正しかったかの自問自答の3年となる。今でも放射能の話題では衝突する。それが友人でも、家族でさえ・・。福島に渦巻く不安はいまだ収まらない。

 当事務所では震災3日目、月曜日から施主への連絡確認作業を始めた。そして月一回ペースだったブログを毎日更新した。少しでも前に進みたかったからだ。計画プロジェクトは軒並み無期延期。さらに完成住宅においては住人の避難が続き、真新しい建築が空き家となる。この重大事に何をすれば良いのか、「この非常時にヒビ一つ治せない建築家とはなんだ」との問いが頭を巡り、大きな無力感に襲われる。いざという時に何をすれば、何から始めれば、何もできないのか・・・途方に暮れた。

 一方その間、知人・友人から水や食料が届き、人の温かさが身に染みた。この3年ほどのように、これほどまで地域を思い、愛し、多くの人々に感謝したこともなかった。それは苦悩の連続だったが、けして悪い事ばかりではなかった。今までなかった出会い、励まし、たくさんの温かい心に触れられた。それらから建築がいかに地域や人と関わり、寄り添ったものかも学んだ。地域が崩壊、人がいなくなれば建築は成り立たないのだ。

 いまだ困難が続く福島。その中、「地域建築家は何をすべきか」の問は続く。しかし人々は手をつなぎ、多くの旗をたて始めている。今後、この困難時に福島の建築人が何を思い、何を求め、何をしているかを伝えていきたい。
 写真は木造仮設住宅計画会議風景と完成時記念写真です。



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